
就職活動で問われがちな、”10年後のビジョン”。大抵は、志望動機と辻褄が合うようなストーリーを作り上げるのですが、危険なのは面接用に作り上げたはずの10年後のビジョンが、いつの間にか本当に自分がやりたいことだと錯覚して突き進んで後悔するケース。また同じく危険なのが、ビジョンが不明瞭なことに不安を感じ、悩み過ぎるケースです。ご安心下さい。ビジョンを最初から持っている人はごく僅かです。大抵は歩きながら、走りながら、躓きながら自分に正直な選択を繰り返すと、最後は上手く繋がっているものなのです。
就活準備で悩ましい10年後のビジョン~ビジョンが不明瞭でも恐れることなかれ!
「就職/転職をしたいが5年後、10年後の自分が必ずしもピクチャーできないし、面接でしろ、といわれても困る。」
こんなふうに素朴に感じる人は、多いのではないだろうか。そんな諸君に、「それでも十分に調査し、頭が禿げるくらい悩みこんだあとなら、それでも突き進んでよい」と思ってもらえるように、以下に一つのケースを紹介したい。
国際弁護士として、外交の舞台を目指した青年A
青年Aは小学校時代の作文でこう書いていた:「将来は大統領になって親を楽させたい。」手前みそな内容だが、言うことがかわいらしいので、学校新聞に載ったという光栄な作文だったそうだ。
そんな彼が中学、高校と成人に近づくにつれ外交官をめざしたい、と思うようになった。それでも霞が関の官僚というものに抵抗を感じた青年Aは、アメリカで多くの政治家、大統領がロースクール出身であることを知り「自分も米国のロースクールを出て、立派な国際弁護士として実力をみにつけたうえで、外交の舞台に上がりたい」と壮大な夢を描くようになる。この時の青年はまだ15歳だったという。
行動力のある青年Aは、高校を中退し、単身アメリカに渡り現地の公立高校に編入する。そして必死に勉強して大学にも進み、ジョージタウン大学のロースクールからの合格通知を手にして涙するのであった。
ジョージタウンと言えば、知る人ぞ知る「外交官輩出」で有名な学校であり、その専門の修士課程プログラムも充実しており、ロースクールの生徒にも履修の機会が開かれている。青年Aが第一志望、いや、「唯一」志望校としてジョージタウンにあこがれたのは当然だった。
しかし、Aはすぐに悲しい現実を目の当たりにする。生活苦にくるしむ実家にはもう授業料をはらえず、Aにローンを出したがる銀行も皆無だったのである。Aはさっそく東京で就職活動中の実兄に電話をし、こう切り出した「(ロースクールの受験資格を失う)4年以内に、授業料と生活費の合計2千5百万ためなきゃいけない。」すると実兄はゴールドマンサックスやソロモンスミスバーニー(当時)に就職して働くしかないと助言したのであった。
大金を稼ぐためだけに、外資系証券会社のトレーダーに
株と債券の意味も区別もできない青年Aは、このとき20歳であった。しかし、ドットコムバブルの勢いがのこっていたトップ外資系証券会社の1社が、Aの若さとバイリンガルの素養をかって株式セールス・トレーダーのポジションで採用するのであった。
「4年間で2千5百万」という制限しか頭にないAは、がむしゃらにこのトレーダーの仕事をこなす。「この仕事は好きだ」だの、「やりがいがある」などといっていられない。彼にとっては、この朝6時に起きて出社し、8時には顧客に電話をしてトレードの発注を受け付け、夜には接待をするこの仕事が、生きるため、そしてこれまでやってきたことを無駄にしないための、つき進むしかない唯一の道だったのである。
このようにして青年Aは、アメリカの大学の必須単位を取得したものの卒業式にもでないまま、最大手外資系証券の株式セールスのプロとして、活動を始めるのであった。予想をはるかに超える苦労がまちうけているとは知る由もないままに、である。
外交に携わるという夢のために腹を括った青年A
顧客の売買注文を執行する際にはマニュアルミスを犯し客に迷惑をかけ、会社には損失補てんというかたちで何千万円にものぼる損害をあたえるという事件が度重なった。顧客には「あの帰国子女の若い子を担当からはずしてくれ」と上司に苦情が入ることも数回あり、社内からですら、精神論や「営業やトレードとはなんぞや」というゴタクをからめた説教が青年Aを疲れさせた。20歳そこそこのAには、イガミとして聞こえるものもおおかった。
しかし、青年Aにとって一番堪えたのは、その仕事自体に興味も情熱も最初から感じていないとはっきり自覚していたことだった。最初からしたくもない仕事で、他人と同じ土俵にたち、比較されたり、批判されること自体に自尊心が傷ついた。
しかし、悩みに悩んだあげく、青年はそれでもこう自分にいいきかせる:「僕にはこの道しかないし、前にすすむしかないんだ。かならず4年でお金をため、米国でロースクールをでなくては。」
目の前の仕事にがむしゃらに働き結果を残す
すべての現実を受け入れる覚悟をきめたAは、目の前の仕事に果敢に立ち向かいはじめた。将来立派な政治家や国際弁護士になるために株のセールスをすることがどんなに遠回りにみえても、一歩前にすすむためにはその道しかないと「まず受け入れる」ことからはじめた。
そして、担当している顧客のうち比較的年齢の近い若手の顧客を接待にさそい、すこしづつ人間関係を築いた上で取引を増やしていった。
それに自信をつけ、だんだん年配の顧客や、厳格でやり手と名高い大手の顧客にも地道な訪問営業や、雰囲気によっては夕食の接待もするようになった。トレードにつきもののマニュアルミスを犯した場合には、それがたとえほかの社員の間違いであったとしても、顧客が大事であれば客先で土下座までしたのであった。トップ外資系証券の一員がここまですることは、今も昔も前例がなかった。
社内での仕事も「がむしゃら」に打ち込み、社内と顧客の見方がすこしづつではあるが着実に変わるようになっていった。証券マンをやって2年目が終わろうとするころ、Aは社内のチームでトップ3にはいる収益をうみだし、顧客がつけるブローカーランキングでも国内運用会社として運用資産高トップの某投資信託会社から堂々「1位」を獲得するようになる。
転機〜すべてはロースクールに入学するために〜
そこで、競合他社に移っていた元上司から連絡がはいる:「うちに移籍するなら、いまお前のもらっているボーナスの2倍を約束する。」会社とチームに愛着をもち、自分を高く評価してくれる人たちに囲まれて仕事するのが心地よかったA。
それでも、ロースクールの夢をすててはいなかった。あくまで「4年で2千五百万円の貯金」をすることをめざしていたAは、2日がかりで必死にひきとめようとしてくれた周りに対し感謝と謙遜の大涙をこぼしながら、他社への移籍を実行するのであった。
Aは移籍後2年間順調に成績を上げ、紆余曲折を経て文字通り留学資金を用意し、予定通りロースクールに入学する。久しぶりに戻った米国の、しかもロースクールという環境でも必死に3年間勉強し、ニューヨークに本社をおくトップ・ローファームでM&A弁護士として米国・アジアでのあらゆる取引をあつかうようになるのであった。
証券会社で培った経験と人脈を活かして
Aの証券会社時代の経験は、不思議な形で「弁護士としてのA」の付加価値をたかめるようになる。金融機関である顧客が資金調達をする際、法定開示のため目論見書の準備やアドバイスをする際、証券会社でお金をかせぐ立場にあったAは、ほかのどの弁護士よりもその中身とニュアンスと顧客の立場を理解した。
多くの弁護士が、どんな質問をされてもヘッジだらけの「長たらしい」アドバイスを電話やメールで提供し、顧客を辟易させるなか、元営業マンのAはわかりやすく、有用で且つQualityをおとさない形で助言ができ、ローファームのパートナーや顧客から非常に高い評判を得た。
プライベートエクイティ関連のM&Aディールを執行する際は、PEに転職をした証券会社時代の元同僚と連絡をとり、より業界知識や顧客の立場につき理解を深めた上で仕事に望むことができ、社内での情報共有にも役だった。
そしてなによりも、弁護士の仕事で苦労や挫折があったとき、証券時代の苦労を思い返し、「さらに良い仕事によって周囲を見返そう」と、短期間のうちに立ち直ることができた。
Apple創業者Steve Jobsの名言
Apple創業者の故・Steve Jobsはスタンフォード大学の卒業式での有名なスピーチで、次のような名台詞を述べている:「点と点は将来を見通そうとするときにはつながらなくても、後で振り返ってみると完璧につながっているものである。だからこそ、時には勇気を振り絞って最善と思える不確かな道を進まなくてはいけないときがある。」
大学を卒業してすぐに外資系証券で株の営業をはじめたAにとって、「点」は一切つながらず、そのことに恐怖さえ覚えた。しかし今弁護士のAがそれらの経験を振り返ったとき、すべての「点」が、あたかもすべてをお見通しの神が運命の線をひいていたかのように、必然とすら思える形でつながるのである。
現在就職・転職活動中の諸君にとっても、将来5年、10年がはっきり描けなくてもあまりそれ自体に悩まないでほしい。十分なる調査・検討をした上での「最善と思える不確かな道」は、勇気をもって踏み出すべきである。本コラムの著者である、Aが現在もニューヨークでそうしているように。